称名寺のシイノキ -宮城県亘理町-

 宮城県は東北地方で最小の面積7,286 km2 であるが、山地・火山から平野、海岸まで変化に富む地形からなる。仙台市から自動車で海岸線沿いに走る国道6 号(陸前浜街道)を福島県に向かって約 1 時間南下すると、亘理町に達する。町の中心街の南側の小高い丘陵の標高約 20 mに、称名寺がある。丘陵末端のすべてが称名寺の境内である。東側から階段を登ると本堂に達し、その西側・南側には墓地が広がっている。本堂の前に、奇怪な姿をしたシイノキの巨樹が立っている。シイノキは元来冷涼な気候の宮城県には自生しないとされているので、称名寺の前身である光明院の開山のときに、誰かが温暖な地方から苗木を持ってきて植えたものではないかと考えられている。 
シイノキは樹高14 m、幹周り10.2 m 、前後左右に20 m も枝を広げており、推定樹齢 700 年から国指定の天然記念物であることをうなづける巨樹である。樹木を見て気が付くことは、生長に伴い多くの樹根が立ち上がり、その上に巨大な樹幹が放射状に広がっている。多くの樹根がしっかりと大地をつかんでいるように見え、安定感抜群である。なお、このシイノキは、幹周りから判定すると、日本で第3 位とのことである。また、境内の西側の最高地点には、幹周り 5 m のスダジイの巨木がもう 1本みられ、町の天然記念物に指定されている。さらに、スダジイの南側には 2 本のアカマツの巨木も見られる。
 ところで、2011 年の東北地方太平洋沖地震では、震源に近いこの地域は波高15 m の津波に襲われ、海岸低地の大半は浸水し、多くの犠牲者を出した。昨年夏、称名寺を訪れた際、墓石などの転倒、破壊はほとんど見られず、本堂などは無事であったが、津波は標高 20 mの丘陵足下まで押し寄せたのである。
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                       新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2013-06-18 15:31 | 称名寺のシイノキ  

黒槐(くろえんじゅ)の木 -長野県東御市-

 「信濃の国」は、長野県の小・中・高校の入学式、始業式、卒業式など機会ある毎に12年間歌うので、県民で知らない人はほとんどいない。校歌は学校を卒業すれば歌わなくなるが、「信濃の国」は記憶力の旺盛な時期に加えて、その後も同窓会をはじめとするいろいろな会でも歌うことがあり、決して忘れない。このように県民歌が定着しているのは、長野県だけと言われる。「信濃の国」は1899年長野師範教諭浅井 洌(漢学・国文・歴史担当)が作詞、歌詞には、平野(=盆地)、河川、山、産業、人名など地理・歴史に関わる語句が頻繁に使われている。浅井は前任の松本中学校で同僚の志賀重昴(『日本風景論』などの著作であまりにも有名)の影響で地理学に関心を深めことによるとされている。その歌詞の一番に「---松本、伊那、佐久、善光寺、四つの平(=盆地)は肥沃の地--」とある。ここでは、上田盆地は佐久盆地の一部と解されているようであり、また、諏訪盆地などの名称も出てこない。

 前置きが長くなったが、上田盆地の南東端、千曲川左岸、東御市島川原の諏訪神社の一隅に、この黒塊の木がある。神社といっても集落の背後に忘れられたようなきわめて小さな祠があるだけで、注意しないと見過ごす恐れがあるほどである。黒塊の樹髙は30 m、幹周り5 m、主幹は上方で 2 本に枝分かれ、節々で折り曲がったような独特な形で分岐している。もう一つの特徴は樹皮で、黒っぽい粗い亀裂が無数に走っていることである。エンジュはマメ科の落葉高木で、仏教伝来と同じ頃に、中国から伝わったと言われる。この付近は平安時代には朝廷の牧であった御牧ヶ原の北半部に当たっているので、そのころに植栽されたものであろうか。いずれにしても巨木であり、エンジュ(マメ科)としては国内有数とのことである。この樹木の生育しているところから東北東方向に浅間山が望まれるので、黒槐は鎌倉~江戸時代、とくに天明年間の大噴火をどのように見ていたのであろうか、活動のようすを聞きたいものである。

 新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2013-05-20 14:09 | 黒槐(くろえんじゅ)の木  

高遠城址公園の桜 -長野県高遠町-

 長野県上伊那郡高遠町の中心部は、天竜川支流の三峰川と藤沢川の合流点付近に位置する。高遠の名称は中世以来の地名であり、高遠城はこの付近を支配していた高遠氏を破った武田信玄が、1547年に三峰川と藤沢川によって形成された段丘面に築城、両河川の流路を堀、段丘崖を城壁として利用した。江戸時代には保科、鳥居氏を経て、1691年以後内藤氏が城主として、高遠は上伊那地方の政治、経済の中心地として発展した。徳川6代将軍家宣の時代、大奥に仕えて権勢のあった絵島が、役者生島新五郎との恋を問われて流罪となり、没するまで28年間滞在するなど、町内には多くの史跡が残されている。明治に入ってからは、伊那地方の中心機能は天竜川本流沿いに展開するようになり、高遠はその地理的位置から時代にやや取り残された感がある。

 明治4年廃藩置県となり、翌5年高遠城の建物は民間に払い下げられた。そこで、旧藩士達が桜の馬場から城趾にタカトオコヒガンザクラを移植し、明治8年に城址公園となったと伝えられる。現在では樹齢135年を超える、約1,500本以上のサクラが咲く。その花形はややこぶりで赤みを帯び、遠望すると城趾がうっすらとピンク色に染まっているほどである。その規模、色合いから「天下第一の桜」と称されることもあり、長野県の天然記念物の指定を受けているほどである。このように高遠城址公園の桜はあまりにも有名であるが、筆者は隣接する町が出生地でありながら、南アルプス・仙丈ケ岳への登山のために高遠を通過することはあっても、下車する機会がなかった。大学を定年退職した年、岐阜県へ旅行した帰りに天竜川を北上、両親の墓参のついでに初めて高遠に寄った。三峰川にかかる高遠大橋を経て急な坂道を登ると、そこは桜特有な甘い香りのするコヒガンザクラの海であった。樹齢から考えて巨木ではないが、どこを見ても桜、桜---、花を一杯つけた枝が手が届くような低さまで伸びており、その下で多くの観光客が花見を楽しんでいた。あまりの見事さにうまく表現することはできないが、高遠の桜が「天下第一の桜」と賞される理由が少し解ったような気がした。
新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2013-04-19 09:34 | 高遠の桜  

茂林寺の大ラカンマキ -群馬県館林市-

 関東平野の北西部に位置する群馬県館林市、市の名称は中世以来の地名によっているが、「たて」は台地の先端の地形を示す言葉だと言われる。江戸時代には館林藩が置かれ、1661~80 年は後の 5 代将軍徳川綱吉が藩主であった。 館林中心市街地の位置する台地は約10~8 万年前に形成され、その台地は南東方向へ高度を下げ、末端では沖積低地との高度差が約 5 m以下と小さくなる。

青竜山茂林寺は館林中心市街地の南、台地と沖積低地の境界付近に位置している。そのことは、台地の末端に位置する寺を西~北~東に囲むようにつながる湿地が、台地からの湧水に涵養されていることからも容易に判る。ところで、茂林寺は曹洞宗の寺で、1426 年に美濃の僧・大林正通(だいりんしょうつう)によって開山されたが、後に寺の名称は分福茶釜のおとぎ話でよく知られるようになった。寺の境内に入ると、至るところに大小の形態を異にするたぬき像が造られ、林立するたぬき像を見ながら本堂に達する。本堂に向かって右側にラカンマキ(雌株)、左側にヒイラギの古木が植えられている。両者は、1462 年に一緒に植えられたと伝えられるが、ラカンマキのみが県指定の天然記念物である。ラカンマキの樹髙は約14 m 、幹周り 2.88 mで、マキは生長速度が遅いので驚くような巨木ではない。なお、境内にはサワラをはじめとする古木が多数見られるが、寺がおとぎ話で有名になっていることもあってか、荘厳さは感じられない。本堂には拝観料を払えば、分福茶釜(紫金銅分福茶釜)を観賞することもできる。また、境内には童話作家巌谷小波のぶんぶく茶釜童謡碑もある。

 つつじが咲く頃に館林市街地に近いつつじが岡公園(17世紀初頭、城主榊原康政が植栽したのが起源)の探訪と一緒に、茂林寺を訪れて見たらどうであろうか。巨木とともに林立する多くのユ-モラスなたぬき像が迎えてくれるであろう。

新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2013-03-15 13:24 | 茂林寺の大ラカンマキ  

波崎の大タブ -茨城県神栖市-

神栖市波崎は、茨城県最南端、利根川河口近くに位置する。東京から波崎に達するにはかつてはかなりの時間を要したが、現在では利根川に架けられた銚子大橋を利用すれば容易となった。鹿島灘に沿っては大洗町から利根川河口の波崎まで南南東に弓状に延びた砂州・砂丘地形があり、この地域は陸の孤島に近い一寒村に過ぎなかった。ところが、1965年から中南部に鹿島港が掘削されてからは激変した。現在、鹿島港湾付近は臨海工業地帯となっているが、それに対して南端に位置する波崎は、銚子との結びつきが強いものの昔の姿を残している。

 波崎の中心街から少し北西に位置する舎利集落の中心に神善寺がある。神善寺の境内に入ると、その山門付近に大地にどっしり腰をすえ、四方に曲がりくねった大枝を伸ばすタブノキが目に飛び込んでくる。枝の横への張り方がものすごいので、樹髙は 15 mとそれほどでもないが、それでも幹周り8.4 m に達する。主幹の根元付近には奇怪なこぶが大きく盛り上がっており、それを覆うように多くの石仏が祀られている。根元にツバキが着生し、3 月中旬に訪れた時には、一輪の赤い花が咲いていたのが印象的であった。樹齢は約700年とのことであるが、いささかも衰えを感じさせない樹勢である。この木はタブノキとしては日本第3位の巨木で、「神善寺のタブ」とも呼ばれている。江戸時代に、近くで大きな野火が起こり、舎利集落まで火が迫ったが、このタブノキによって延焼が阻止されたと伝えられている。それ以降、この木は「火伏の木」とも呼ばれるようになり、また太平洋戦争の空襲によっても、この木だけが焼夷弾を一発も受けなかったことなどから、地区の人々からより一層大切にされるようになった。

 さらに、2011年の東北地方太平洋沖地震では、本地域に高さ10.8 m の津波が到達したとされている。神善寺付近の標高が 10 m を少し超えるくらいであるが、タブノキが被災したというニュ-スはない。タブノキは、またしても地域を守ったのであろうか。

          新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2012-07-24 13:34 | 波崎の大タブ  

建長寺のビャクシン -神奈川県鎌倉市-

 鎌倉は昔から人気があったが、近年、市内は年間を通して観光客に満ちあふれている。とくに、北鎌倉駅から円覚寺、明月院、建長寺、鶴岡八幡宮、若宮大路を経て鎌倉駅に達するコ-スは、老若男女に好んで歩かれている。

 建長寺は巨福山(こふくさん)建長興国禅寺といい、鎌倉五山第一位、臨済宗建長寺派の大本山である。建長5(253)年に、鎌倉幕府五代執権北条時頼(1227~63)が建立したわが国最初の禅寺である。建長寺の開山、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は1246 年に来日し、九州、京都を経た後、時頼に請われて建長寺の創建に関わったとされる。したがって、創建当時の伽藍配置は、中国宋時代の禅宗寺院を模して、総門・三門・仏殿・法堂・方丈などの主要建造物がほぼ直線状に並び、左右に大禅堂・大食堂を有していた。その後、14、15世紀に数回の火災により、その多くが焼失、現在の建物は江戸時代に高名な沢庵和尚などの進言、徳川幕府の後援などによって再建・復興した。

 ところで、三門から仏殿に達する参拝道の両側、右側に 3 本、左側に4 本のビャクシンの古木が前栽として並んでいる。これらの木々は創建時に蘭渓道隆によってお手植えされたと伝えられ、幾度かの火災にもかかわらず生き抜いてきたと伝えられる。いずれの木々も奇っ怪な形態をしているが、とくに仏殿に近い左側の一本は迫力十分である。樹髙 13 m、幹周り 6.6 m、根元近くで数本に枝分かれして大枝を広げているようすは圧巻である。それぞれの幹には無数の裂け目が入り、病気となったので、近年処置したところ回復したとのこと、いずれにしても樹皮の荒々しさに年月の長さを感じる。なお、建長寺全域が国指定の名勝である。建長寺は人気スポットであるので、静かに観賞するのがむずかしいかもしれないが、ビャクシンは鎌倉一ノの古木とされているのでよくみて欲しい。

新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2012-06-22 14:21 | 建長寺のビャクシン  

八王寺の大白藤 -新潟県燕市-

 広大な越後平野のほぼ中央に位置する燕市は、金属洋食器、金属ハウスウエアなどの生産地として世界に知られている。市の南端を信濃川が東流、東端を信濃川から分流した中ノ口川が北流する。古くは津波目と書かれたが、その意味は「川に侵食される所」とも言われる。

 江戸時代は村上・高崎・会津・桑名・与板藩領などが入り組んで変遷し、河川交通に恵まれた交通の要衝であったが、鉄道交通が中心となってからは幹線からやや離れていることもあり衰退した。近年は上越新幹線の燕三条駅、北陸自動車道の三条燕インタ-も造られ、地理的位置に恵まれて、著しく発展している。
 ところで、信濃川左岸、八王寺集落の安了寺境内に大きな白藤がある。この藤は、安了寺が1684~87年に起きた真宗大谷派の宗門紛争に巻き込まれ、当時の住職が仏光寺に転派した際、その決意の証しとして仏光寺派の本山にある「仏光寺藤」に因んで植栽されたと伝えられる。したがって、この伝えに従えば、樹齢は約 330 年となる。幹周り 7 m 、枝張り東西約30 m、南北約 20 m で、高さ 3 m の棚が四方に広がり、枝から長さ 1 m の白い房が花を咲かせて無数に垂れ下がっている。藤が開花する5月初~中旬には、境内に甘い香りが漂うので、安了寺近くなるとすぐわかるほどである。。藤は生長が非常に早いので、江戸時代後半にはすでにその存在が、「松濤の藤」として知られていたらしい。

 1958年に県の天然記念物に指定され、1967年には市民による「白藤保勝会」が結成された。会では樹勢の退化を防ぐために、根回りの掘削、施肥、枝の剪定などをこまめに実施しているので、毎年、立派な花を咲かせてくれる。開花時には、寺の周囲に何か所も臨時駐車場も用意されるほど、市民に限らず多くの人々から楽しまれている。
新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2012-05-22 11:25 | 八王寺の大白藤  

発地(ほっち)の桜 -群馬県沼田市-

 今冬は寒かったので桜の開花が例年よりは少し遅れ、新潟でもようやく4月16日に開花宣言が出されたところである。今回取り上げた「発地の桜」は今頃がちょうど満開であろうか。群馬県沼田市は北側を武尊山、西側を利根川を隔てて大峰山・子持山、南側を片品川を隔てて赤城山などに囲まれ、それらの山地から流れ出す河川によって造られた段丘の町である。沼田市の中心街地の広がる平坦面などは、下流側に位置する赤城火山の活動と密接に関わって造られたことは言うまでもない。山地、段丘など多様な地形からなる市内には、既に紹介した日本一の大クワと呼ばれる「薄根の大クワ」をはじめとして、巨木・名木が多数残っており、それぞれ大切に保護されている。

 武尊山西部の玉原(たんばら)から流れ出す発地川は右岸に天狗の霊峰として知られた迦葉山(かしょうざん、1322 m)を経て、ほぼ南流する。山地は迦葉山から沼田市街地へ向かって高度を低下させて高玉山(766 m)となり、最後はきれいな三角錐の山容をした戸神山となる。この迦葉山と戸神山の間の山地斜面の東端に、大きく枝を広げた「発地の桜」がある。発地という地名は、三浦系沼田氏の分家である発地氏に由来しており、付近には発地氏が築いた城の遺構もある。桜は枝の見事な広がりに加えて、周囲の水田から見上げるようなところに位置していることもあって一層存在感があるように思われる。樹種はエドヒガン、樹髙 12 m、幹周り 5.2 m、推定樹齢 400 年、枝張りは東西 18 m、南北 22 m 、根元付近には柵も作られているが、斜面が急であるため、ただただ見上げ感動するだけである。この桜は県の天然記念物指定を受け、、苗代づくりのころにちょうど開花することから、地元の人々から「発地の苗代桜」と呼ばれ、親しまれているという。

 東京から関越自動車道を走り、沼田インタ-を過ぎるとすぐ右手に小さいながらも三角錐状の戸神山が見えてくる。「発地の桜」が咲く頃は、ミニ尾瀬として評判となった玉原は見るべきものはないが、戸神山へのプチ登山や迦葉山弥勒寺の参詣を兼ねて訪ねてみたらどうであろうか。ところで、戸神山と呼ばれる山は、たとえば福島県浪江町、仙台市秋保、山形市東部および西部(富神山)に存在しており、それらはいずれも小さいが、尖った山容をしているので形態に由来するのかも知れないが、アイヌ語でぽこんと盛り上がった小さな山を「トコム」と呼ぶようであるから、それらとの因縁も考えなくてはならない。 

新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2012-04-17 15:48 | 発地(ほっち)の桜  

千光寺の五本杉 -高山市丹生川町-

 岐阜県高山市は中部日本を代表する観光地として名高い。高山盆地の主邑である高山市は平成の大合併により2011年現在人口 9.4 万を数えるが、宮川沿いに位置する中心街を除くと、市域の大半は長野県境の飛騨山脈と石川・福井県境の白山火山とに挟まれた山間地からなる。中心市街地の北東部は飛騨山脈の乗鞍火山西斜面から流れる小八賀川の流域に当たり、訪れる人も少なく静寂である。千光寺は高野山真言宗の寺院で、山地の南向き斜面を削って造営されている。寺院は、伝承によれば、377(仁徳天皇65)年に開山された歴史があるが、兵火などにより何回か焼失しており、最終的には1588(天正16)年に高山城主金森長近によって再建されたとのことである。千光寺は飛騨三十三観音霊場であり、森には八十八カ所霊場巡りのコ-スが造られている。また、1685(貞享2)年ころ、円空がこの寺に滞在して仏像63 体を彫ったと伝えられるところから、円空仏の寺としてもよく知られている。

 モミ、トウヒ、ブナなどの巨木が生育する山地斜面を削る、薄暗い小さな谷の底、その一番所の前に、五本杉は周囲の樹木を圧倒するように真っ直ぐに生育している。名称は幹が根元近くで5 本に分かれていることから付けられたらしいが、樹髙47 m、幹周り 12 m 、推定樹齢1,200 年、その姿、樹髙・形の立派さから、国指定天然記念物の指定を受けている。谷底に位置する五本杉は、1959 年の伊勢湾台風でかなり被害を受けたが、今ではその傷跡も癒え、5 本ともそれぞれ競うように生長を続けているように見える。

 高山盆地は旧市街の町並み・史跡だけでなく、周辺地域も自然と歴史、生活が一体となった魅力ある景観に富んでいる。時々は訪れたいと思うところである。

新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2012-02-25 09:48 | 千光寺の五本杉  

連取り(つなとり)の松 -群馬県伊勢崎市-

 2011年の日本列島は、巨大地震、集中豪雨などによって甚大な被害を受けた。それらの一日も早い復旧・復興と2012年が平穏であることを望みたい。

 伊勢崎市は群馬県南部、利根川北岸の低地に広がり、人口約 21.1 万を数える(2011 年)。室町時代には赤石といったが、伊勢宮の勧請にちなんで、伊勢前(いせさき)、伊勢先と呼ばれるようになったなどの説がある。中心市街地は伊勢崎台地、西部の連取町などは広瀬川や利根川などの扇状地に展開する。

 「連取の松」は連取町西部の菅原神社の境内にある。広い駐車場に自動車を停めると、眼前に奇妙な形をした松が飛び込んでくる。この人を圧倒するような松は菅笠のような形をしているので、地元の人々から親しみを込めて「笠松」、あるいは菅原神社の境内にあることから「天神松」とも呼ばれている。伊勢崎市教育委員会のパンフレットによれば、この松は、江戸時代の享保2(1717)年に、連取村を支配していた旗本・駒井氏の家臣に代わって村を治めた飯島一覚が、隣村の韮塚村の諏訪の原に植わっていたものを、天満宮の社前に植え替えたものであるという。このように来歴がはっきりした樹木は珍しいとさえ言われている。したがって、植え替えてから92 年を経過した文化 5(1808)年には、既に巨木となっているようで、名所として知られていたらしい。樹種はクロマツ、樹髙は 5 m、幹周り 4 m、枝張りは東西 35 m、南北26 mもあり、推定樹齢 300 年、県指定の天然記念物である。

 この松の変わった形態は、自然になったものではないという。すなわち、松の生えている菅原神社は、連取村上組の鎮守であることから、秋に上組の氏子が毎戸一人を出して、きちんと手入れをした結果である。松は鳥居と拝殿の間に植えられているので、参詣者は長く伸びた大きな枝の下を腰をかがめながら注意深く歩かなければならない。このように鳥居をくぐってから腰をかがめ、頭を低くして通過しなければならないので、自然に畏敬の念が生まれると言われる。この松の隣には、明治43(1910)に植えられた「シンマツ」もあり、これもかなりの巨木となっている。

新潟大学名誉教授 鈴 木 郁 夫
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# by meiboku | 2012-01-24 09:55 | 連取り(つなとり)の松)